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動く絵画・静止する映像 《アーティスト・ファイル2011  レビュー》

2011 年 4 月 29 日 4,616 views No Comment

何年か前『液晶絵画』の展覧会があった。絵画と映像、この二つの異なった表現領域を液晶という技術を使って融合しようという試みだ。この展覧会ではいろいろな作品が展示されていたが、一つの特徴は液晶に映し出された絵画に動画の要素も取り入れているという点だ。普通の絵画のようだが、実はその中には「動」の仕掛けがあるのだ。液晶で見る絵画には静と動が混在し、これまで体験したことのない不思議な体験をすることができる。

『液晶絵画』は絵画を液晶パネルで見せ、そこに「動」という仕掛けを忍ばせた作品だった。これをまったく逆にした作品、すなわち映像をあたかも静止画のごとくに見せようとしたのが写真家、松江泰治の作品だ。現在、東京の国立新美術館で開催中の『アーティストファイル2011』で松江泰治の最新作を見ることができる。

松江泰治は1963年生まれの写真家だ。松江の写真や映像作品の特徴は世界各地の人や自然をあたかも低空で飛ぶ飛行船から見たようなアングルで撮影していることだ。

今回の展覧会で紹介されているシリーズの一つに日本も含めた世界各地の都市を俯瞰で撮影した写真がある。ごく普通の街並みが写し出されているにもかかわらず、強いインパクトを持って私たちに迫ってくる。果てしなく続く家並みは地平線まで続き、空が写っていない。遠くから近くまですべてにピントがあった大判の写真を眺めていると、遠近感が消え、写し出されたもの全てが一つの平面上に均一に広がるような不思議な感じさえしてくる。

もう一つの特徴は陰影を写真から消し去っていることだ。そもそも写真は光と物が作り出す陰影を紙の上に記録する技術であったはずだ。陰影の無い写真は実に不思議なものだ。松江の写真には光が充満しているが、いったい太陽が今どこにあり、どこから光線がさしているのかわからない。これらの写真からは空気の存在と時間の経過を消し去ってしまったかのようにさえ感じられる。

陰影を消すために、松江は晴れた日の太陽が一番高い時間帯を狙って撮影するのだという。一般的に柔らかな陰影を持った美しい写真を撮影するためには曇りの日の柔らかな光線を使う。しかし松江はあえて絵画や写真の世界で大切にされてきた陰影を消すことで独特の世界を表現しているのだ。


こうした写真の世界をさらに進化させ、松江泰治が「動く写真」と表現するのが2010年に制作された映像作品だ。今回は4本の映像作品を展覧会場の液晶パネルで見ることができる。この4本の映像作品の中でもとりわけ私の興味を引いたのは砂漠の中の小さな街を俯瞰で撮影した《ARI》と、無人の荒野を写した《ATACAMA》という30分ほどのビデオ作品だ。

《ARI》はどこかアフリカの砂漠の中の街だろうか。画面の半分には街の背後に広がる砂丘が映し出されている。砂丘に今にも飲み込まれそうな小さな街。街には一本の通り沿いにまばらに並んだ石の家があるだけで人も木々も映されていない。《ATACAMA》は右から左へ走る一本の道路とそれに平行して走る線路が荒野を貫く風景を撮影した作品だ。植物もまばらにしか生えておらず、もちろん人影は一切ない。

両方の作品に共通しているのは最初から最後まで編集はもちろんのこと、レンズのズームやカメラのパンなど一切ないことだ。固定されたカメラは延々と荒涼とした風景を映しだしている。写真と同じくやはりこれらの作品も俯瞰で撮影されており、空が映されていない。太陽の高度が一番高い時間を選び、風のない天候の安定した日を選んで撮影したのだろう。音も無ければ、動くものが何も無い、実に不思議な映像だ。

動くものがない光景だからそれは写真のようでもあり、もっといえばリアルな絵画のようにも見える。しかし展覧会場の液晶パネルの脇のキャプションからそれは映像作品であり、長さが30分だと知った瞬間、私たちは不安を感じ、どこかに動くものを必死で探し始める。

不安を抱えながらじっと見ていると一台の車が道路を走るのを目撃する。それは豆粒のように小さい。一本の道路と線路が走る荒野を映し出した《ATACAMA》では30分の中で一回だけ長い貨車を引いた機関車が画面を右から左へと横切る。

動くもののない映像の中に動くものを捉えた瞬間、私たちはこれがまぎれもない映像だということに納得がいく。不安は一挙に解消され安堵する。あえて動くものを排除し時間の経過すらも消し去った映像だが、そこには「動」が巧妙に隠されているのだ。

私たちは今、映像に取り囲まれて生活している。街にも職場にも家に帰ってもそこは映像の氾濫だ。ネットには映像があふれ、携帯の端末でも容易に映像にアクセスできる。世の中の現象をある時間で切りとった写真ではなく、時間経過の情報も含んだ映像の力は静止画の何倍もの情報量を持っている。150年ほど前、人類は写真の発明で世の中の現象を瞬間で切り取る技術を手にした。人類にとってそれは絵画の時代とは比べ物にならないほど多くの情報を容易に得ることに成功した瞬間だった。そして今、写真の何倍もの情報を持った映像に取り囲まれて生活している。絵画には絵画の、写真には写真の、また映像には映像のそれぞれの表現手段が持つ特質があり、お互いが共存し様々な表現を可能にしてきたのだ。

こうした表現の境界を越える試みが液晶絵画であり、松江泰治の映像作品ではなかろうか。それは時間を切り取ったはずの絵画に新たに時間を持ち込み、時間を表現した映像からあえて時間を消し去るという、これまでの芸術の領域を乗り越えた新たな表現の挑戦といえるのだ。
映像には作者のメッセージが巧みに込められている。それを可能にするのは映像をモンタージュすること、すなわち編集という行為だ。さらに最近のデジタル技術、特にコンピュータグラフィックスは現実と作られた世界の境界線をも消し去ろうとしている。何が真実で何が作られた映像なのか、容易には判断出来ないこともしばしばある。制作者はあらゆる手段を使い映像を編集し加工して自らのメッセージを伝えようとする。しかし映像の高度な加工技術を手にした今、そうした加工が行なわれれば行なわれるほど、映像の持つ説得力は少なくなっていくようにさえ思える。あまりに過剰な編集や加工は本来映像が持っているはずの記録性という能力を軽くしてしまっているのだ。

一切編集していない、一切加工されていない、少なくとも見る人にはそう見える松江泰治の「動く写真」は、過剰なまでに加工された現在の映像作品とはまったく逆を行くものだ。不思議なことに映像が氾濫する時代に生きる私たちは、松江の静止画のような加工されていない映像作品によって、何故かその想像力を限りなく喚起されるのだ。そこには映像本来の持つ機能とは何かをもう一度原点に帰って考えさせる何かが隠されているのかもしれない。

『アーティストファイル2011』では松江泰治の作品以外にも絵画や陶芸、インスタレーションなどで若手作家の意欲的な作品を見ることができる。そのどれもがこれまでのアートの領域を越え、新しい芸術表現の可能性を感じさせるものばかりだ。 そうした作品は実際に見ることでその新しい可能性がより強く伝わってくる。是非一度展覧会場に足を運び、新しい可能性を直接感じてほしい。


text:小平信行

「アーティスト・ファイル2011―現代の作家たち」の展覧会情報はコチラ


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