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歴史のパラドックス――なぜ森村は「なりきら」なかったのか?《森村泰昌 なにものかへのレクイエム-戦場の頂上の芸術 レビュー》

2011 年 3 月 28 日 2,588 views No Comment

「いま」と「過去」は途切れることなく、どこかで連続している。「過去」がなければ、「いま」という時間はありえないし、逆に「いま」という視点をなくしては「過去」もまた存在しえない。しかしそれ故に、その両者を区切る地点を見つけることは非常に難しい。極端なことを言うなら、こうしている間にも「いま」という時間は飛び去り、新しい「いま」がやってきているのだ。そう考えると「いま」と「過去」という時間区分そのものが無意味なことにすら思えてくる。

便宜的に「いま」という言葉を「現代」という言葉に置き換えてみても、その問題はほとんど変わらないままだろう。第二次世界大戦の終結をもって現代が始まると主張する者がいれば、フランス革命こそが現代という時代の礎を築いたのだと言う者もいる。そしてどちらの主張も、ある程度の説得力をもっている。あるいはベネデット・クローチェが言うように、歴史というものが現代という視点から構成されている以上、「すべての歴史は現代史である」というのが実際のところなのかもしれない。

それでも「いま」と「過去」をつなぐ結び目はいたるところに点在している。例えばふとした切欠で、何年も昔に行った旅行の写真を見るとき、ぼくたちはそれを通してその時間を垣間見、つかの間の時をその場所で過ごすことになる。それは過ぎ去ったものであると同時に、「いま」という時間を成り立たせている土台でもある。そしてそのことは、決して個人的な回想にとどまるものではない。文書や写真といった記録を扉として、ぼくたちは、自分が実際には生きたことのない時代を体験し、それを無意識のうちに「いま」という時間に関連づけている。そしてその過ぎ去った時代が、連続した総体として提示されるとき、ぼくたちはそれを歴史と呼ぶのだろう。逆に言えば歴史とは、過去という時間を閉じ込めた琥珀のコーパスのようなものなのかもしれない。

それならば、その琥珀の中に、現代からの侵入者として現れる森村泰昌は、ぼくたちを一体いかなる場所へと連れていこうとするのだろうか?

『森村泰昌 なにものかへのレクイエム-戦場の頂上の芸術』は、彼が以前から続けてきたセルフ・ポートレイトによって構成されている。以前から森村は、名画の登場人物や映画女優にふんした自画像という、ある種の虚構としての自画像を制作してきた。ただし、今回の展覧会に登場する作品が模倣の対象としているのは、それまでの森村の作品とは違い、20世紀の歴史を記録してきた報道写真やイコンとしての歴史上の人物の肖像である。本展は1951年生まれの作者が最も自身の記憶と結びついている時代である60、70年代の記録を皮切りにして、報道写真中の人物や毛沢東、チェ・ゲバラといった歴史上のイコン、ピカソやダリといった芸術家にふんした森村のセルフ・ポートレイトで構成されている。それゆえに会場にある写真は全て、本当にあった出来事でありながら、どれもが偽者であり、ここで提示されているものは虚像としての歴史といってよいだろう。それでも周到な準備の上に制作されたポートレイトは、本物と偽者の境界を軽々と乗り越え、「過去」と「いま」の結び目のほどかれた場所へと鑑賞者をつれさっていく。

エディ・アダムズの有名な報道写真『サイゴンでの処刑』を模した一枚。元となっている写真は、ベトナム戦争中、サイゴン警察が捕虜として捕らえたベトコン兵士を射殺する寸前の場面をとらえたものである。この写真はベトナム戦争の記録を代表する一枚であるとともに、国際世論の形成に大きな役割を果たした歴史の歯車でもある。森村はこのポートレイトの中で、ベトコン兵士、彼を射殺する警官、その背後でその光景を見つめる兵士、全ての人物にふんしている。そして注意してみると、背景となっているのはベトナムではないことに気がつく。モノクロの写真であるがゆえに一瞬欺かれるが、そこはぼくたちがよく見慣れた日本の路上なのである。そしていつの間にか、鑑賞者は自分が現実と虚構のどちらでもない奇妙な空間に立たされているのを知ることになる。そこにあるのは、実際には存在しない光景であると同時に、起こりうるかもしれない光景である。過ぎ去ったはずのものと「いま」とが混じりあう。そして森村がベトコンと警官(さらには傍観者である兵士)のいずれをも演じしているために、加害者と被害者の境界は消え去り、誰もがそのどちらにもなりうることを示している。

しかしそれはまだ、表層に過ぎない。さらに注意深く観察すれば、彼の作品にはいたるところに、「なりきる」ことを放棄した痕跡を発見することになるだろう。すると一旦結びついたはずの「過去」と「いま」とは切り離され、両者の存在そのものが揺るぎ始める。

たとえばあの有名なアインシュタインのポートレイトに作者がふんした作品《なにものかへのレクイエム(宙の夢/アルベルト2)》。元となる写真について説明はほとんど不要だろう。アインシュタインが舌を出したこの写真は、Tシャツのプリントや切手になっているほど世界に行き渡ったイコンである。このイコンを模した森村の作品は、一見、ほとんど説明されなければ偽者であると気がつかないほど精巧に作られている。しかしながら奇妙なことに、少し注意して見れば分かる程度に、はっきりとカツラと頭皮の境目がぼかされることなく放置されている。チェ・ゲバラの肖像にふんした作品でもそれは変わらない。それは明らかに付け髭であることが分かるように製作されているのだ。

もちろんこれが森村のミスや技量的な欠如によるものでないのは間違いないことである。意図的に彼は、「なりきら」なかったのだ。それでは何故、彼は「なりきる」ことを放棄しなければならなかったのか?

 その糸口となる言葉が、彼の著書『「美しい」ってなんだろう?』にある。その中で彼は、自身の作品の趣旨について次のように語っている。
「わからないときは、そのわからないもの自身になってみる。そうすれば、なにかがわかるのではないか」
 しかし彼は最終的に「なりきる」ことを拒んだ。それは彼が対象を理解しようとした痕跡であるとともに、結局は分からなかったことの告白なのではないだろうか、とぼくは考える(少なくとも「なりきる」ことへの抵抗が森村にはあったはずである)。その推測をもとに、さらに疑問を押し進めよう。つまり、なぜ彼は「分からなかった」のか?

 当たり前のことではあるが、歴史とは記録されたもののことである。なぜなら蓄積された文献や資料、証言をもとに、ぼくたちは「過去」というものが何であったかを構築していくからだ。それゆえに新たな記録が現れるたびに、歴史は書き加えられ、あるいは修正されていく。そしてそのことは、歴史がつねに誤りを含んでおり、完結しえないことの裏返しに他ならない。「過去」が「歴史」へと変換されるためには、「記録」という触媒の存在が不可欠である以上、「過去」と「歴史」とが完全に一致することは決してありえないのだ。この記録という触媒は、歴史の運命を決定的に握り締めている。記録されなかった過去は歴史にはなりえない。にもかかわらず、偽りの記録(存在しなかった過去)は歴史となりうる(そして現にそうなってきた/いる)。それなのに、このパラドックスをぼくたちは当然のものとして受け入れ、ふだん歴史と過去を同一のものとして扱っている。

 森村は「なりきる」という過程で、このひずみを認識したのだとぼくは思う。つまり先ほどの作品を例にとれば、彼は自分が実際に演じたのはアインシュタインという人物ではなく、「アインシュタインの記録」に過ぎないのではないか、という疑念に突き当たったのだ。チェ・ゲバラの場合も同じことである。誰もが心に描くあの意思に燃えた精悍な革命家の姿は、ある面ではゲバラを捉えてはいるものの、それは同時につくられたイコンに過ぎない。そこではゲバラという人間は多分に抽象化され、神格化される。結果として現れるのは、「偽者」とまではいかなくとも「つくられた」記録であり、それは記録されなかったゲバラの姿を遥か後方へと押しやり、さらには歴史を構築する。『サイゴンの処刑』でもそのことは大きく変わりはしない。それが写真家というひとりの人物の主観によって、意図的に一瞬の場面を切り取ったものである以上、それは必然的にある程度「つくられた」記録なのである。そしてぼくたちは、つまるところ「記録とはつくられたものである」という至極当たり前の結論に達する(それなら同じつくられたものである以上、森村がふんした偽者のゲバラと、本物のゲバラの肖像の間に、一体どのような差があるというのだろうか?)。そしてつくられたものであるがゆえに、「なりきって」みたところで、そこに写し出された人物を理解することなどできるはずがないのだ。記録されなかった、あるいは捨象された部分を抜きにして、過去と同化することは土台無理な話なのである。そしてその不可能性をあえて告白することで、逆説的に、彼の作品は「記録されなかった過去」をも照準に合わせることができたのではないだろうか。

「なにものかへのレクイエム」というフレーズは本展のタイトルであるとともに、来場者へ投げかけられた問でもある。全ての作品を見終わった後、鑑賞者は考えることになるだろう。この写真の数々は、いったい何に対して捧げられたレクイエムなのだろうか、と。恐らく答は存在しないか、あったとしても一定のものへと収斂していくようなものではないだろう。しかしその問いかけに対して、僭越ながら、ぼくは次のように答えたいと思う。「これは記録された過去から、記録されなかった過去に向けて捧げられたレクイエムである」のだと。

参考文献:展覧会図録


text:浅井佑太

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