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世界の深さ/人間の深さ 《MOTアニュアル2011 Nearest Faraway|世界の深さのはかり方 レビュー》

2011 年 3 月 28 日 3,100 views No Comment

本展覧会はもともと「世界の深さの測り方」ではなく「測鉛を下ろす」という邦題を持つ予定だったようだ。「測鉛」とは、航海の際に水深を測るために水中に下ろされる鉛のことで、人々はロープの先に鉛を結びつけ、それがどこまで水中に潜るかを見ることによって海の「深さ」を測っていた。「測鉛を下ろす」という表現は、そこから転じて「物事の深層/真相を究明する」という意味で用いられるようになった。面白いのは「測鉛を下ろす」という表現が、英語のfathomという動詞の訳語であり、しかもfathomとは、「人間が両腕をめいっぱい開いたときの長さ」(約1.8m)を意味する「単位」であるということ。人は海の深さを測るのに、最も身近な存在である自身の身体を尺度として選んだのだ(身体尺)。例えば「この海の深さは、自分が両腕を開いた長さの32倍である、56倍である」といったように。————自分自身の最も身近な素材(nearest)を尺度として、果てしなく続く世界の深さ(faraway)を測ること。あるいは、最も身近なものの内にこそ、世界の深さを探し求めること。人間のスケールに適うものに即して、人間のスケールを遥かに超える世界の深さに接近すること。これが人間にとっての「世界の深さの測り方」にほかならない。

冨井大裕

梱包用の白いカーボンボックスが積み木のように積み重ねられている。ポケットティッシュの束が2本のネジで壁に固定されている。4色のスポンジがレンガのように積み重ねられている。赤いハンマーが、ヘッドを下にして並べ置かれている。アルミ板の間にスーパーボールが挟まれ、幾層にも積み上げられている。色鉛筆がカラフルな断面を上にして束ねられている。画鋲がびっしりと壁に突き刺されている。以上。

冨井が作品制作に用いるのはきまって日常的なモノたちだ。だが冨井は、日用品に染み付いた「物語性」を利用して作品を作るのではない。あるいは日用品を、日用品としてのあり方を否定し、その意味をばらばらに解体して作品に利用するのでもない。冨井は日用品を、それが日用品であることがわかる仕方で、しかもその通常の使用法とはまったく異なる仕方で、作品にする。クリップを、「クリップだけどクリップじゃない何か」として見せること。

例えば、赤いヘッドと白木の柄を持つドイツ製のハンマーを、ヘッドを下にして規則正しく並べ置いた《wood #2》という作品がある。冨井はまず、ハンマーから、そこに付着した様々な物語性や象徴性を排除することから始める。大工道具としてのハンマー、力強さや逞しさの象徴としてのハンマー、破壊道具としてのハンマー、父親の記憶と結びついたハンマー、殺人道具としてのハンマー。このようにして冨井は、ハンマーを最も基本的な「構造」に還元してゆく。

ハンマーは、上が重く、下が軽い。ゆえにそれは、ヘッドを下にすれば立つ。この単純きわまりない「構造」を純粋に提示するというのが《wood #2》の意図なのだ。そして試みに、そのハンマーを逆さのまま並べてみる。するとハンマーが「ヨ」の字にぴったりと重なり合う。ヘッドの比は3:1なのだ。そして「ヨ」の字のユニットを、向きを逆さにして並べてみる。すると両者は、機械のパーツのように意味ありげに並び合う。またそれを逆向きにして組み合わせる。それを連続させる。すると柄の上部の断面の楕円形が、ポツリポツリと空中にパターンらしきものを描いていることに気づく。点字のような、星座のような、二進法のような。ハンマーの構造のなかで見逃されていた規則性、そのリズム、その隠された信号のようなものが、不意に目の前に展開し始めたのだ。

日用品の中に隠されたパターン、リズム、不思議な法則性、規則性。二本の箸は、左右を逆にして並べるとぴったりと重なり合う。4色のスポンジをランダムに並べると、そこにパターンめいた音楽のようなものが現れる、スポンジの裏の黒い部分は、古代文字のような謎めいた模様を描く。まったく関係のないスーパーボールとアルミ版に穿たれた穴とが、思わぬ仕方で結合し、美しい構造体を生み出す。日常の使用のなかに埋もれていたモノが、ふとした瞬間にかいま見せる思いもしなかった奇妙な法則性。組み合わせ。どこか意味ありげなパターン。

冨井はそのパターンをとらえるために、モノの「不自由さ」を利用する。なぜ冨井は接着剤を使わないのか。それは「接着剤を使うと何でも出来ちゃうから」。丸いものは、丸いがゆえに、積み重ねることができない。このあまりにも自明なスーパーボールの「不自由さ」を安易に克服しようとせず、その不自由さに忠実であること。そこから、スーパーボールとアルミ板の穴との唐突な結合という思いもかけぬ出会いが生まれてきたのだ。そして「不自由さ」とは、まさしくモノが置かれた「世界」が要請するもの、いわば世界そのものの構造が要請するものに他ならない。いかなるモノも、世界の構造にあらがっては存在し得ないからだ。世界の深いところにある構造は、日常的に目にするモノの「不自由さ」という形でその表層に表れてくる。

世界の構造は、思わぬ瞬間に不意打ちのように人を襲う。ハンマーが逆さに立ち、ぴったりと並ぶ。一組の箸がぴったりと重なる。スーパーボールがアルミ板の穴にぴったりとはまり込む。どこか深いところ、どこか最も単純なところで、世界には驚くほど単純な規則が働いている。そのような規則がひらめき出る瞬間を的確にとらえること。そしてそれを美しく単純な構造体として示すこと。それが冨井にとっての「世界の深さの測り方」に他ならない。


椛田ちひろ

天井から吊るされた巨大なトレーシングペーパーが、美しいドレープを描いて空間に静かな流れを生み出している。その表面は、金属のような質感をもったインクによって隙間なく真っ黒に塗りつぶされている。よく見るとそれは、ボールペンで描かれた無数の円の重なり合いであることがわかる。椛田は、ボールペンの円だけで、巨大なトレーシングペーパーを一色に塗りつぶしてしまったのだ。そこには椛田の狂気、神経症的なものが克明に刻み込まれているようにも見える。だが椛田は意外とあっけらかんとしている。怪しい金属光沢をたたえて美しいドレープを描くトレーシングペーパーは、椛田にいわせればオーロラであり、それをびっしりと埋め尽くしているボールペンの軌跡のひとつひとつは、宇宙の闇を満たす星々のざわめきなのだ。椛田はつぶやく。今夜は《星がうるさくて眠れない》。

宇宙、ブラックホール、相対性理論。天体物理学は椛田に多くのインスピレーションを与えた。ボールペンの線で真っ黒に塗りつぶされ、真ん中からまっ二つに裂けた巨大な紙面。椛田はこの作品を《事象の地平線》と名付けた。「事象の地平線」とは、物理学の用語で、情報が到達しうる最も遠い領域のこと。その向こう側のことを、人間はけっして窺い知ることはできない。情報が、そこからこちら側に向かって伝達されることは物理的に不可能だからだ。事象が存在し得る最果てに引かれた一本の地平線。椛田はその向こう側に想いを馳せる。だが椛田は一足飛びにそこに向かおうとはしない。椛田は、最も身近な事柄から、つまりボールペンで円を描くという最もシンプルな手仕事から始める。

ボールペンが描き出す点が連なって一本の線となり、線が無数に重なり合って紙面全体を覆い尽くす面となる。だが椛田のペンは止まらない。円の上にさらに円が描かれる。面は徐々に厚みを増す。インクはさらに光沢を増し、その重量を増してゆく。紙がインクの重みでたわむ。紙がますます変形してゆく。点から線、線から面、そして面から立体が生まれる。だが椛田はそこで終わりにしない。執拗なまでにペンの上にペンを重ねてゆく。するとある時、巨大な紙面が、インクの重みに耐えきれず、その真ん中からまっ二つに切り裂かれ、紙の向こう側に、見たこともない世界がぽっかりと口を開く。その時、あたかも傷口が開くかのようにして、事象の地平線に一本の亀裂が走ったのだ。事象の世界を極限まで追いつめた先に見えてくるもの。点から線へ、線から面へ、面から立体へ、そしてその先に見えてくるもの。その次にくる次元。世界の最も深いところに到達するには、最も身近なもの、手仕事を、果てしなく積み重ねてゆく他に道はないのだ。

ボールペンで塗り潰された一枚の巨大な紙面。そこにはもはや、普段見慣れたあのボールペンの線は存在しない。そこにはこれまでには見たこともない得体の知れぬ新しい存在が生まれてきている。それを構成する部分はボールペンの内部に充塡されたインクと何ら変わりはないのに、それが無限に積み重ねられることによって、単なるインクとははっきりと異なる、新しい未知の存在が不意に姿を露呈させてきたのだ。ボールペンのインクは、「量」を通じて、新しい「質」へと転化した。「量」が「質」に転化する。椛田の作品制作は、「量」の連続的な増加から、別の「質」への非連続的な跳躍が出現するその瞬間に賭けられたものなのだ。その瞬間の到来を一心に信じて、椛田は今日も、ひとつひとつ小さな円を無限に描き連ねてゆく。


八木良太

スピーカーから、ジリジリと小さなノイズのような音が聞こえてくる。画面には、様々な人の指紋が大写しにされ、その上を、小さな計器のようなものがなぞっている。指紋はよく見るとレコードの溝に似ている。八木は、その溝をレコードの針で引っ掻くことで、そこから聞こえてくる音に耳を澄ませる:《Fingerprint》。隣の部屋には、茶色い球体が幾つも浮かんでおり、鑑賞者は白手袋をはめて、それを小さな装置に設置するように求められる。球体を装置に据えると球体が回転し始め、そこから声のような、声でないような、かすかな音が聞こえてくる。実は、球体にはカセットの磁気テープが無造作に巻き付けられており、装置のリーダーがそれを読み取ることで音が出る仕組みになっているのだ:《Sound Sphere》。

ひとりひとり異なる指紋からは、ひとりひとり異なる音がする。個々人の生まれながらの記憶がそこに刻み込まれている。レコードとは、物理的に刻み込まれた溝の凹凸を、針が物理的に引っ掻くことで音を生み出す装置のことだが、見渡せば、世界にはあちらこちらに様々な溝があり、そこには様々な凹凸が刻み込まれている。そこに何か意味はないのか。そこから何らかの信号が、何らかの声が聞こえてくるのではないか。それは、例えば詩人のリルケが、死者の頭蓋骨に刻まれた溝にレコードの針をあてて死者の声を聞き取ろうとした事実にも繋がる人類共通の想像力であるが、おそらく世界には様々な痕跡がそこら中に刻み込まれており、様々な信号が飛び交っているに違いない。それを聞き取る/読み取ることができないのは、人間が単にそれを受信する装置/計器を持ち合わせていないからなのだ。

空中を飛び交う無数の電波も、それを受信するアンテナがなければその存在に気づかないように、世界には様々な情報が飛び交っているにもかかわらず、人間がそれを捉える計器を持ち合わせていないがために見過ごされてしまっているものが無数に存在する。そこにレコードの針という一本の計器を入れることで、それまで見過ごされていた地球の新たな層が見えてくる。聞こえてくる。そしてその計器とは、レコードの針といった機械的なものとは限らない。人間の感性もまた計器のひとつなのだ。地球の深さを測るその針を常に研ぎすませておくこと。地球に刻み込まれた溝に常に敏感であること。その地層を、その表面に刻み込まれた綾を、しっかりと探り当てること。見極めること。世界がどのように現れてくるのか、世界がどれほどの深みを持って現れてくるのかは、最終的にはその人の最も身近なもの、その人の感性そのものの精度にかかっているのだ。

「アウシュビッツの後に芸術は可能か」というアドルノの問いに、震災という人類的な悲劇を経験しつつある芸術家はどう答えればよいのか。巨大なトラウマは芸術家から言葉を奪い、芸術家はすべて失語症に陥るのかも知れない。あるいは失語症に陥らないような芸術家は、芸術家ではないといえるのかも知れない。しかし、だからといって「芸術は世界を救う」などといった大言壮語を振りかざすべき時ではない。今は、芸術にとって可能なこと/不可能なことをしっかりと見極め、坦々と失語症を失語症として生きるべき時だ。失語症にあらがって雄弁になることもまた、失語症のひとつの症状であるとすれば、芸術家はその症状を素直に生きればいいと思う。日常の強さが、非日常の弱さを押し切るときまで、坦々と力強く日常を生き続けること。世界の深さを、人間の深さを、人間の強さと弱さとを、坦々と生き抜いてゆくこと。これが、災後のわれわれの生き方だと思う。


text:桑原俊介

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