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Articles in the 展覧会レビュー Category

Featured, 展覧会レビュー, 桑原俊介, 関東 »

[2010 年 8 月 30 日 | No Comment | 111 views]
自然観/自然感を再定義する《ネイチャー・センス展 レビュー》

森美術館は、2010年度のテーマとして「日本の再定義」を掲げている。今回の『ネイチャー・センス展』は、その一環として「日本の自然観」を再定義する試み。主題となるのは、「知性」でとらえた自然のみならず、「感性=感覚(センス)」でとらえた自然。現代日本を代表する3人の芸術家は、どのように自然を「感性的」にとらえ、それをどのように「感性的」に芸術作品として呈示するのか。そして来場者たちはそれをどのように「感性的」に捉え、そこからどのようにして「日本の自然観/自然感」の再定義を図るのか——。明治時代にnatureの訳語として造語された「自然:しぜん」概念は、それ以前の仏教的な「自然:じねん(=ありのまま)」概念と融合して、どのように日本人の(日本語を用いる者の)知性と感性とを作り上げていったのか。そしてそれは現在どのようなあり方を見せているのか——。日本で最も「大地」から切り離された(地上約230メートル!)「森」美術館で、「ネイチャー」についての知性と感性とを考える。

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Featured, 小平信行, 展覧会レビュー, 関東 »

[2010 年 8 月 30 日 | No Comment | 76 views]
絵画的な写真《オノデラユキ 写真の迷宮(ラビリンス)へ レビュー》

20世紀半ばに活躍したフランスの写真家アンリ・カルティエ・ブレッソン。私の最も好きな写真家の一人だ。ブレッソンの写真集「決定的瞬間」の中の一枚「サン・ラザール駅裏のヨーロッパ広場」。一人の男が水溜りをよけようと飛び上がった瞬間をとらえたなにげない写真だがなぜか魅かれる。ブレッソンは肉眼に比較的近いという理由で標準レンズを好み、日常のごく当たり前の光景を独特のフレーミングでとらえた。ブレッソンの写真はこうした日常の風景を「決定的瞬間」に変えてしまう魅力がある。ブレッソンは自分の関心で対象を追い求め、自己表現の一手段としての写真という新境地を開いた。

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Featured, 展覧会レビュー, 浅井佑太, 関西 »

[2010 年 8 月 30 日 | No Comment | 99 views]
モダニズム―ある時代の精神―《印象派とモダンアート レビュー》

モダンという言葉を定義するのは意外に難しい。直訳すれば「現代の」「近代の」という意味だが、それは絵画や建築といった芸術の分野だけではなく、例えば「modern weapon(近代兵器)」と言った具合に、様々な分野に適応することができるし、さらに言えば、モダンと言う言葉は、時代や文脈によってプリズムガラスのようにその意味合を変えてしまうからだ。モネの絵画がモダニズムとして解釈されたと思えば、クレーの抽象画がモダンアートとして扱われると言った矛盾をぼくたちは日常のうちで何度も経験しているだろう。ぼくの手元にある書籍では、紀元前の土器にすらその形容詞は使われている。さらには「ポスト・モダン(ポスト・現代)」と言う一見不可解な用語まで存在する始末だから性質が悪い。

それでは、ぼくたちは「モダン」という単語をどのように解釈すればよいのだろう?

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Featured, 吉田卓爾, 展覧会レビュー, 関西 »

[2010 年 8 月 30 日 | No Comment | 69 views]
子供たちに贈る―水木しげるの『妖怪』画―《水木しげる・妖怪図鑑 レビュー》

『妖怪』に対するイメージは人それぞれに異なる。具体的な、すなわち擬人化された『妖怪』を想像する人も居れば、抽象的な火の玉のようなモノを想像する人も居るであろう。また擬人化された『妖怪』と一言に言っても、人に被害を及ぼす『妖怪』とそうでない『妖怪』とがいる。展覧会図録の中で京極夏彦氏が『妖怪』の定義や水木しげるの功績について触れているように、人それぞれに異なったイメージを持っている『妖怪』という漠然とした存在に具体的な姿・形を賦与したのが水木しげるその人である。

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吉田卓爾, 展覧会レビュー, 関西 »

[2010 年 7 月 28 日 | No Comment | 176 views]
空気の読める芸術家<束芋>―共感できる面白さ・妄想できる恐ろしさ―《束芋:断面の世代展 レビュー》

まず、本レビューが現代美術の真剣な鑑賞を完全に諦めた人間の手によって書かれていることを告白しておこう。
いつから現代美術を真剣に鑑賞することを諦めたのか記憶が定かではないが、似たような作品や作家が現れては消えていき、こじつけのような批評に作品が埋もれていくような世界に対して筆者は、長い間表現しようのない迷いや怒りを感じ嘲り続けてきた。そんな筆者の耳にも<束芋>という作家の名は定期的に入ってきたが、上記のような世界の中で、新たに出てきたモノの良し悪しを自ら判断する気力などなく、例に洩れず<束芋>という作家も筆者の興味の対象にはならなかった。今回『束芋:断面の世代』展に赴く気になった理由は、あまりに無機質で自分でも言葉にするのが憚られるほどであるが、<束芋>という作家が時代に埋もれていくことなく存在し続けているからに他ならない。<束芋>の作品が淘汰されることなく生き残ってきた理由について、すなわち今この時代に団塊ジュニアと言われる世代の作家がこのような作品を制作する背景や意義については、展覧会図録において木村絵理子氏、植松由佳氏、田名網敬一氏らが、また本サイトでも小平信行氏が述べられている。特に木村絵理子氏は、<束芋>の生い立ちや社会の流れと<束芋>の作品との関係について、また作品の表現やテーマの変遷について、<束芋>の言葉を拾い上げながら丁寧に述べられており、今後の現代美術の方向性にも通底するような指摘をされている。なので、門外漢の筆者は主に<束芋>の作品に対する感想を好き勝手に述べてみたい。
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