Articles in the 吉田卓爾 Category
吉田卓爾, 展覧会レビュー, 関西 »

あなたの住む町や故郷はどんなところであろうか。地域格差、地方分権といった言葉をニュースなどで耳にすることが近年特に多いように感じられる。人間は生まれたときから様々であり、生まれる家までは選べない訳であるから、自分の境遇を受け入れてどうにか生きていくしかないのであるが、地域格差という問題になるといささか状況が異なってくるように思われる。政治の戦略とその未熟さこそが、現在の日本の地域格差を生み出しているとするのは行き過ぎた考えであろうか。とはいえ、百年以上も前に土佐という田舎から世界を見ていた坂本竜馬のことを思うと、しっかりとした自分の信念と志があれば地域格差さえも大きな問題ではないのかもしれない、そんな想いにさせられる。偉そうな言い方になってしまって恐縮ではあるが、和歌山県立近代美術館もしっかりとした信念と志を持っている美術館である。現在開催中の『油絵の魅力展』では和歌山近美の良さが十二分に発揮されている。『油画の魅力展』は和歌山近美の開館40周年を記念して、3部構成で行われている展覧会の第3部にあたる。展示されている作品の多くは和歌山近美のコレクションであり、1月30日まで同時開催されている『コレクション展2010-秋冬』の内容とも関連している。
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清水寺を目指すベタな観光コースとして筆者が挙げ得るものは、三通り程ある。一つ目は、南から東大路を北上し、琵琶湖へと続く五条通りに至ったところで東大路と枝分かれする五条坂を登り参道へと入るコース。このコースは京都駅方面から出発し、蓮華王院や智積院、妙法院や京都国立博物館などを経由する場合が多い。京都駅が平安京の玄関口である東寺の近くにあることを思えば、いささか大袈裟な言い方ではあるが、一つ目のコースは上洛してきた人々の道である。二つ目は、北から八坂神社や高台寺を経由し、八坂の塔に至ったところで三年坂を登って参道へと入るコース。三つ目は京都の中心、四条河原町から建仁寺、六波羅蜜寺を経由して西から清水寺を目指すコースである。この場合も六波羅蜜寺から八坂の塔を目指し、三年坂から参道へ入ることになる。一つ目とは反対に二つ目、三つ目のコースは、洛中に住む人々の道である。道幅や駐車場などの関係で、車で来る人々は否応なしに一つ目のコースを使わざるを得ない。そのため、清水寺の参道では、西洋人、アジア人、日本人の観光客が入り乱れているものの、三年坂を利用する外国人は案外少ない。清水三年坂美術館はそんな三年坂にひっそりとたたずむある美術館である。 (続きを読む…)
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本サイトを訪れる方々、このレビューを読んでいる方々はきっと、美術や芸術が好きで、自分とは違ったモノの見方や考え方に対して、批判的な姿勢は持ちながらも柔軟に興味を持つような方々が多いのではないだろうか。そういう美術や芸術への思いに支えられているからこそ、筆者は足りない頭をひねりながら、できるだけ多くの人に伝わるようにしようと心掛けながらも、自分の思ったことをそのまま主観的に述べることができている。もしかすると、今述べたことは美術や芸術が持つ本質の一つかもしれない。しかし、魔術的レアリスムとも称されるオットー・ディックスの作品には、決して主観では語ることのできない「現実」がある。そんな、ディックスの作品の性格をよく示しているのが、「物事には一切のコメントは不要だ。私にとっては、その物と向き合うことの方が、それについて語るよりよほど重要だ。私は視覚の人間であって、哲学者ではない。だから私の絵画では、なにが現実で、なにが真実として語られるべきかを示し続ける。」というディックス自身の言葉である。主観的な意見を交えることなくディックスの作品について述べる術など筆者にはないが、ディックスの作品についてできる限り丁寧に記述していくことで、いわゆる美術や芸術とは少し異なった側面を持つディックスの作品の性格について考えてみたい。 (続きを読む…)
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一言一句正確に思い出すことはできないが、夕方のニュース番組で、ミシュランガイドの話題に関連して、関西テレビの山本キャスターが、「確かに星を獲得するのは凄いことだと思います。しかし、星のつかないお店でも良いお店はありますし、本に載らないお店の中でも自分の中では三ツ星というお店もあります。料理屋さんの方達には、そのお店が好きで楽しみにしてくるお客さんの気持ちを大事にしてもらいたい。」と言っていた。山本キャスターの指摘は、評価する側、評価される側の在り方、在るべき姿を的確に衝いている。
現在、細見美術館で開催されている『琳派展ⅩⅢ』において筆者は、美術作品をどう見るべきか、どう評価すべきか、そんな問いを投げかけられているように感じた。先に記した題名から分かるように、『琳派展』は今年で十三回目を数える同館の名物企画である。会期は三期に分かれており、Ⅰ期は『花鳥』、Ⅱ期は『人物』、Ⅲ期は『吉祥』に関する作品が多く出品されるようである。 (続きを読む…)
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『妖怪』に対するイメージは人それぞれに異なる。具体的な、すなわち擬人化された『妖怪』を想像する人も居れば、抽象的な火の玉のようなモノを想像する人も居るであろう。また擬人化された『妖怪』と一言に言っても、人に被害を及ぼす『妖怪』とそうでない『妖怪』とがいる。展覧会図録の中で京極夏彦氏が『妖怪』の定義や水木しげるの功績について触れているように、人それぞれに異なったイメージを持っている『妖怪』という漠然とした存在に具体的な姿・形を賦与したのが水木しげるその人である。
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まず、本レビューが現代美術の真剣な鑑賞を完全に諦めた人間の手によって書かれていることを告白しておこう。
いつから現代美術を真剣に鑑賞することを諦めたのか記憶が定かではないが、似たような作品や作家が現れては消えていき、こじつけのような批評に作品が埋もれていくような世界に対して筆者は、長い間表現しようのない迷いや怒りを感じ嘲り続けてきた。そんな筆者の耳にも<束芋>という作家の名は定期的に入ってきたが、上記のような世界の中で、新たに出てきたモノの良し悪しを自ら判断する気力などなく、例に洩れず<束芋>という作家も筆者の興味の対象にはならなかった。今回『束芋:断面の世代』展に赴く気になった理由は、あまりに無機質で自分でも言葉にするのが憚られるほどであるが、<束芋>という作家が時代に埋もれていくことなく存在し続けているからに他ならない。<束芋>の作品が淘汰されることなく生き残ってきた理由について、すなわち今この時代に団塊ジュニアと言われる世代の作家がこのような作品を制作する背景や意義については、展覧会図録において木村絵理子氏、植松由佳氏、田名網敬一氏らが、また本サイトでも小平信行氏が述べられている。特に木村絵理子氏は、<束芋>の生い立ちや社会の流れと<束芋>の作品との関係について、また作品の表現やテーマの変遷について、<束芋>の言葉を拾い上げながら丁寧に述べられており、今後の現代美術の方向性にも通底するような指摘をされている。なので、門外漢の筆者は主に<束芋>の作品に対する感想を好き勝手に述べてみたい。
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サッカーのW杯が開幕し寝不足の日々を過ごしている方も多いのではないだろうか。多様な各国のフォーメーションや戦術には何度見ても飽きの来ない奥深い哲学があり、諸々の哲学同士の相性や各哲学が内在する利点と欠点との均衡は見ていて本当に面白い。いわずもがな美術の世界にも多様な哲学ある。全てのことを同じ概念で捉えてしまうのはいささか深慮に欠ける稚拙な思考であるが、選手達を作品や作家に、指揮官をキュレーターや研究者になぞらえることもできよう。現在、兵庫県立美術館で開催中の『レンピッカ展』は、主催者の『あいさつ』によればレンピッカ研究の第一人者であるアラン・ブロンデル氏の協力と、パリ・オランジュリー美術館館長エマニュエル・ブレオン氏の監修をもとに展示・構成されている。すなわち、本展覧会ではレンピッカの作品が放つ独特の魅力も然ることながら、世界有数の芸術都市パリが世界に誇るオランジュリー美術館の館長であるエマニュエル・ブレオン氏のキュレーション能力も大きな見所の一つなのである。大事なことは私達がレンピッカの作品をどの様に鑑賞するかであるが、所謂箱物の美術館においては主催者側がどの様に鑑賞させているのかについて考えることも忘れてはならない。
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