Home » Archive

Articles in the 浅井佑太 Category

展覧会レビュー, 浅井佑太, 関西 »

[2011 年 9 月 28 日 | No Comment | 2,773 views]
生きているもの・想像力の源《所蔵品展 人のかたち、生きもののけはい レビュー》

アクアリウムで巨大な鮫を飼育することはできないし、逆に水族館の大水槽に熱帯魚を放ったりはしない。箱には箱に見合った中身が求められる。そういう意味では、伊丹市立美術館は、美術史の見出しに名前の挙がるような有名画家の回顧展を開くような恵まれた箱とは言えないかもしれない。重文指定となっている旧家や庭園のそばに併設された美術館は、スペースとしてはかなり狭い部類に入るし、外観もすぐにそれと分かるようなものではない。過去の企画展を振り返ってみても、美術史の本流からはそれた絵本画家や日本の作家の展覧会をつつましやかに開催しているという印象がある。しかしそれは逆に、国立西洋美術館のような大美術館では決して取り上げられないテーマを得意としているとも言えるだろう。美術館には美術館にふさわしい企画が求められるのだ。

(続きを読む…)

展覧会レビュー, 浅井佑太, 関西 »

[2011 年 8 月 29 日 | No Comment | 3,404 views]
モホイ・ナジの作品はなぜつまらないか《視覚の実験室 モホイ=ナジ/イン・モーション レビュー》

20世紀の芸術を振り返るとき、しばしばそこでは世紀の転換期よりも、第一次世界大戦の終結が根本的な歴史的分岐点を示していることに気づかされる。もちろんそれには世界地図の再編や政治体制の変容といった外的な事情が大きく関わっていることは言うまでもない。しかしながら何よりも大きなことは、第一次世界大戦によって、楽観的な進歩主義や伝統への信頼といった、かつては当然のものとして扱われた幻想に終止符が打たれたことだろう。そのような精神的な激変の中、芸術家たちはかつての規範や伝統にただ乗りしていられるはずもなかった。むしろダダイストたちに顕著なように、過去は唾棄しなければならない否定的なものとすら映っただろう。彼らは何も無い荒野から、新たに芸術を作り出さなければならなかった。それはつまり、創作の前段階から、「芸術は何のためにあるのか?」といった根本的な問いに対しても、芸術家自らが回答しなければならないことを意味していたのである。

(続きを読む…)

展覧会レビュー, 浅井佑太, 関西 »

[2011 年 7 月 28 日 | No Comment | 3,439 views]
絵画の中の物語《フェルメールからのラブレター展 レビュー》

少し奇妙な質問に思われるかもしれないが、ぼくたちは普通何のために美術館に足を運ぶだろうか? もちろん絵を見るためであるというのが、最も明快で的を射た回答であることは間違いない。けれどももう一歩先へ思考を進めてみよう。例えばモネの風景画や、あるいはキュビズムのような抽象画の場合、絵画とは見て楽しむためのものだろう。つまりそこで問題となるのは、切り取られた一瞬の風景の美しさや、極限まで切り詰められた構図であって、それに対してぼくたちはまず関心を向けることになる。もちろん絵画を通して、その時代の背景や画家の人生を洞察するといった楽しみ方はあるだろうが、それはあくまで二次的なものに過ぎない。その意味でこの場合、絵画とは純粋に「見る」ためのものであると言ってよい。

(続きを読む…)

展覧会レビュー, 浅井佑太, 関西 »

[2011 年 6 月 28 日 | One Comment | 3,267 views]
「遠きもの」の舞台《没後100年 青木繁展 レビュー》

穏やかに波立つ海面と、その上で画面全体を照らすかのように輝く朝日。――28歳の若さで夭折した青木繁、彼の絶筆となった作品は、海を描いた絵画であった。画壇への登場から死ぬまでの僅か9年間という画家生活の中で、彼は幾度となくこの「海」というモチーフを取り上げてきた。青木繁の代名詞ともいえる《海の幸》はもちろんのこと、海の情景は印象派風のものから、ゴッホ風の荒々しい筆致によるものまで、様々な形に変奏されながら彼の作品の中に現れてくる。海という主題はいわば、通奏低音のようにして、彼の画業全体を支配しているのである。

(続きを読む…)

展覧会レビュー, 浅井佑太, 関西 »

[2011 年 5 月 31 日 | No Comment | 3,494 views]
我々にフォルムはない《カンディンスキーと青騎士 レビュー》

「表現主義(Expressionism)」という術語の意味を説明するのは、見かけ以上に難しい。およそ何かを表現しない芸術など、世の中には存在しないだろう。それにもかかわらず、ことさらにカンディンスキーやマルクの作品に対してこの言葉が使われることに、異論を唱える人はほとんどいない。それならば、表現主義とそれ以外の芸術を隔てているものはいったい何なのだろうか? 何をもってぼくたちはカンディンスキーの作品を表現主義的と呼ぶのだろう? (続きを読む…)

浅井佑太, 関西 »

[2011 年 4 月 29 日 | No Comment | 3,514 views]
裏切られたビジョン《パウル・クレー展 レビュー》

無から有を創りだす芸術家の仕事は、しばしば神の仕事にたとえられてきた。自らのイメージをその卓越した能力によって具現化するという点で、確かに両者はよく似ている。そしてこのことは当の芸術家も強く意識していたようで、例えばデューラーは自らをキリストにたとえた自画像を描いているし、とりわけ19世紀以降、多くの芸術家は文字通り神のごとく傲慢な振る舞いを歴史の舞台で演じてきた。いわば無から有を産み出す仕事は、神と芸術家のみにゆるされた特権的な能力だったのである。

そのような「天才的な」芸術家に対する一般的なイメージは恐らくこんなものではないだろうか。つまり、まず芸術家の頭の中には作品の完全なビジョンが浮かび上がる。すると彼はペンを、あるいは絵筆をとり、そのビジョンを現実の世界に光臨させる……、等々。

もちろん、ぼくたちは実際の芸術家の仕事が、そのような容易いものではないことを知ってはいる。ベートーヴェンが一曲の交響曲を完成させるまでに、その三倍もの量のスケッチを残すこともあったことはよく知られているし、あの《最後の晩餐》の構図は綿密な遠近法の計算があって初めて成り立つものであることも事実だ。それでも彼らの作品の完璧さからは、そのような労力の跡を感じとることは難しいだろうし、芸術家自身もそのような苦労の跡を作品に残すことを良しとしないことが多かった。着想から完成までの道のりが短ければ短いほど、それは言うならば天才の証左となりえたのである。

そのような芸術家の仕事と比較すると、クレーが着想から完成の間にたどった道筋は、極めて複雑で奇怪なものに見える。いや、むしろ彼の場合、完成という概念そのものが不明確であると言った方が正しいかもしれない。

(続きを読む…)

展覧会レビュー, 浅井佑太, 関西 »

[2011 年 3 月 28 日 | No Comment | 2,855 views]
歴史のパラドックス――なぜ森村は「なりきら」なかったのか?《森村泰昌 なにものかへのレクイエム-戦場の頂上の芸術 レビュー》

「いま」と「過去」は途切れることなく、どこかで連続している。「過去」がなければ、「いま」という時間はありえないし、逆に「いま」という視点をなくしては「過去」もまた存在しえない。しかしそれ故に、その両者を区切る地点を見つけることは非常に難しい。極端なことを言うなら、こうしている間にも「いま」という時間は飛び去り、新しい「いま」がやってきているのだ。そう考えると「いま」と「過去」という時間区分そのものが無意味なことにすら思えてくる。

便宜的に「いま」という言葉を「現代」という言葉に置き換えてみても、その問題はほとんど変わらないままだろう。第二次世界大戦の終結をもって現代が始まると主張する者がいれば、フランス革命こそが現代という時代の礎を築いたのだと言う者もいる。そしてどちらの主張も、ある程度の説得力をもっている。あるいはベネデット・クローチェが言うように、歴史というものが現代という視点から構成されている以上、「すべての歴史は現代史である」というのが実際のところなのかもしれない。

それでも「いま」と「過去」をつなぐ結び目はいたるところに点在している。例えばふとした切欠で、何年も昔に行った旅行の写真を見るとき、ぼくたちはそれを通してその時間を垣間見、つかの間の時をその場所で過ごすことになる。それは過ぎ去ったものであると同時に、「いま」という時間を成り立たせている土台でもある。そしてそのことは、決して個人的な回想にとどまるものではない。文書や写真といった記録を扉として、ぼくたちは、自分が実際には生きたことのない時代を体験し、それを無意識のうちに「いま」という時間に関連づけている。そしてその過ぎ去った時代が、連続した総体として提示されるとき、ぼくたちはそれを歴史と呼ぶのだろう。逆に言えば歴史とは、過去という時間を閉じ込めた琥珀のコーパスのようなものなのかもしれない。

それならば、その琥珀の中に、現代からの侵入者として現れる森村泰昌は、ぼくたちを一体いかなる場所へと連れていこうとするのだろうか?

(続きを読む…)