Articles in the 浅井佑太 Category
展覧会レビュー, 浅井佑太, 関西 »

図書館の本棚にぎっしりと詰め込まれた書籍を前にして、呆然と立ちすくむことが時たまある。お目当ての資料がどこにも見当たらないのだ。一時期ワイマール共和国時代のドイツについて調べものをしていたことがある。政治史だろうが思想史だろうが、この手の問題について書かれた文献は山のようにあるから、大抵の疑問は簡単に解決する。資料の多さがかえって妨げになるくらいだ。けれども「当時の家屋の間取り」だとか「パン一切れの値段」といった身近な疑問になればなるほど、どの本を手に取ればいいのか分からなくなってしまうのだ。そういう時、歴史は本流から外れたものたちの記録を容赦なく切り捨てていくものだということに気づかされる。
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20世紀前半に活躍した日本人画家の作品を見たとき、どう反応してよいか分からないことがしばしばある。ひとつひとつの作品から受ける印象は悪くない。どれも力作であることは疑いようはないし、色使いや構成の巧みさからも、作家の技量の高さを窺い知ることができる。しかしどうにも釈然としないのは、彼らの作品にはどこか既視感がつきまとっていることだ。そしてそうした既視感の正体は大抵の場合、彼らが時代に先駆けて吸収してきた西欧の前衛芸術に由来することが多い。確かに彼らの作品が日本の前衛芸術運動の中で果たしてきた役割は、動かしがたいものなのだろう。しかしそうした痕跡を作品の中に目にするたびに、彼らの作品を手放しで賞賛していいものなのだろうかと、心の奥底でふっと疑念が浮かび上がるのである。
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美術館に行くと、ふとそこに展示されている作品を持って帰りたくなるときがある。そういうのは大抵の場合、会場の中心にあるような大作ではなく、どちらかというと目立たない小品の方だ。たった一枚飾ってあるだけでも、部屋を満たす空気は見違えるように素晴らしいものになるだろう。もっともそんな願いが叶うはずもなく、ポストカードや図録で我慢することを強いられることになる。そもそも美術館に行けば、誰もが作品を鑑賞する機会があるということは、その作品が誰か一人だけのものではないということの裏返しに他ならないのである。
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確かに魅力的な展覧会だ。切れば血が吹き出そうな、異様な凝縮力に満ちた作品に出会う機会はそう多くはない。しかし会場を後にしてしばらくすると、どこか気味が悪い気分になってくる。そしてその感情はますます膨れ上がり、会場での興奮をかき消すほどにまでになる。その理由はうまく言葉にすることはできない。けれどどうやら、作品そのものに対して嫌悪感を抱いているというわけではないらしい。どちらかと言えば、アール・ブリュットの支持者たちの言葉に乗せられるかのように、彼らの作品にこそ芸術家たちが失ってしまった「本物の芸術」があるのではないかと少しでも考え始めている自分に対して薄気味の悪さを感じるのである。
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いつから芸術作品の中に、作家の個人的な苦悩や心情が投影されるようになったのだろうか。そして鑑賞者は作品に芸術家の実人生を重ね合わせるという奇妙な構図。少なくとも、それは極めて近代的な現象であることは間違いない。恐らく絵画の領域でそれが一般化し始めるのは、せいぜいゴッホの辺りからだろう。例えばコローの作品を見る際に彼の面影をちらつかせる必要などほとんどないが、ゴッホの場合、彼の狂気じみた生涯を抜きにして作品を語ることなどありえないことだろう。彼は何を描かせても、自画像になってしまう画家であった。そして面白いことにゴッホ以降の多くの画家は、作品に実人生が投影されることを見越して、人生を「演じ」始める。典型的なのはサルバドール・ダリだろう。彼が遺した逸話や奇行の数々は、作品の受容の際にも決定的な影響力を持っているし、彼自身それを意識していなかったとはとても思えない。彼はいわば、人生そのものを作品化しようとしたのである。それならば奇怪なファッションに身をつつみ、自身の幻覚体験を臆面もなく曝け出す草間彌生は、まさにそのような系譜の最先端に位置しているのだろうか?
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写真はそれを撮った人が、どのように世界を見ているのかを教えてくれる一つの手がかりになる。そのことは技巧を凝らしたプロよりも、われわれのようなアマチュアの写真の方が理解しやすいかもしれない。たとえば親しい友人と旅行したときのことを思い出してみるといい。旅を終えてお互いの撮った写真を見比べてみたとき、ほとんど同じ景色を共に見ていたはずの相手の写真が、不思議なほど自分のものと異なっていることに驚かされた記憶のある人は少なくないだろう。しかもそれは目線の高さや、被写体の選択、あるいはカメラの機能といった外的な要因に限ったものではない。話し方や筆跡にどことなくその人の性格が浮かび上がるように、写真にはそれを撮った人独特の空気感のようなものが反映されているのである。その意味で、写真とはその人のものの見方を映し出す鏡に他ならない。
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自分が見ている世界と他人が見ている世界が同じであるという保証はどこにもない。ぼくたちは普段、時代や社会という同じ文脈の中で活動しているから、それに気がつかずに(あるいは振りをして)過ごしていてもなんとかなるというだけのことだ。それどころか、そのような差異が表出したとしても、大抵の場合、ぼくたちはそれを調整して平均的な世界像を作りだそうとする。けれども偉大な芸術家たちが打ち壊そうとしてきたものとは、まさにそのような平均的な世界像であったとも言える。彼らはみな、まだ誰も見ていなかった世界を現出させることに心血を注いできたのである。
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