Articles in the 桑原俊介 Category
展覧会レビュー, 桑原俊介, 関東 »
展覧会名の「シンセシス(synthesis)」とは、複数のものを「一緒に(syn)+置く(thesis)」ことを意味する。「綜合」や「合成」と訳される。それが単なる「総合」と異なるのは、そこに新しい存在が生まれてくるから。その結合からは、いわば「ハイブリッド」な存在が生まれてくるのだ。ただし名和による「綜合」は、他動詞的ではなく自動詞的。つまり名和は、何かを「綜合する」のではなく、何かが「綜合してくる」ようにその条件を整える。その際彼が利用するのが、複数のメディア間の違いだ。アナログの鹿とデジタルの鹿。鹿を二つのメディアの間で往還させるならば何が生じるのか。そこで鹿はどのように「解体」され、どのように「綜合」されてくるのか。メディア間で「二重化」する事物。事物はメディア間を移動することで、様々な姿に「二重化」され「綜合」される。
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展覧会レビュー, 桑原俊介, 関東 »

本展覧会の名称『フレンチ・ウィンドウ』は、デュシャンの《フレッシュ・ウィドウ》という作品に由来する。デュシャンは、「フレンチ・ウィンドウ」と呼ばれるフランス式の窓を、黒い皮で目隠しし、それを「フレッシュ・ウィドウ(=なりたての未亡人)」と名付けた(黒=喪)。単なる言葉遊びによって結びついたフレンチ・ウィンドウとフレッシュ・ウィドウ。単なる音の類似性が、フランス窓と未亡人にまつわる意外な歴史性を顕在化させる。時は第一次世界大戦直後のパリ。市街には実際に、喪に服する数多くの未亡人たちの姿が見られたことだろう。そして戦時中、空爆に備えて貼られていた窓の黒い目隠しは、戦後には喪を示すための目隠しとして利用されたことだろう。いわば、パリ中の窓という窓が、さらにいえば当時のフランスという国そのものが、すっぽりと喪に包まれたなりたての未亡人と化していたのだ。また両者は、他者の視線、他者の欲望を遮ることによって、よりいっそうその視線を、その欲望を引き付けてしまうという逆説的な官能性をたたえた存在でもある。窓も未亡人も、こちら側とあちら側(此岸と彼岸)との境界を生きる存在であり、両者は、秘められた「あちら側」への欲望を、遮ることで煽り立てる、閉ざされた通路なのだ。———————フレンチ・ウィンドウとフレッシュ・ウィドウという単なる言葉遊びが引き起こした数々の観念の連鎖。普段は決して出会うことのなかった二つのモノが、言葉の類似性を介して不意に出会い、そこに幾つもの新しい意味が産み落とされてゆく。モノが普段とは別の関係性や文脈の中に置かれることで、それまでには見えてこなかった様々な潜在的な可能性が開発されてゆくのだ。六本木ヒルズに唐突に現れたフレンチ・ウィンドウは、現代フランスを覗き込む「窓」として、あるいは、フランス的な思考の「枠組み」として、現代フランス(の芸術界)のどのような秘められた可能性を顕在化させるのか。
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展覧会レビュー, 桑原俊介, 関東 »

本展覧会はもともと「世界の深さの測り方」ではなく「測鉛を下ろす」という邦題を持つ予定だったようだ。「測鉛」とは、航海の際に水深を測るために水中に下ろされる鉛のことで、人々はロープの先に鉛を結びつけ、それがどこまで水中に潜るかを見ることによって海の「深さ」を測っていた。「測鉛を下ろす」という表現は、そこから転じて「物事の深層/真相を究明する」という意味で用いられるようになった。面白いのは「測鉛を下ろす」という表現が、英語のfathomという動詞の訳語であり、しかもfathomとは、「人間が両腕をめいっぱい開いたときの長さ」(約1.8m)を意味する「単位」であるということ。人は海の深さを測るのに、最も身近な存在である自身の身体を尺度として選んだのだ(身体尺)。例えば「この海の深さは、自分が両腕を開いた長さの32倍である、56倍である」といったように。————自分自身の最も身近な素材(nearest)を尺度として、果てしなく続く世界の深さ(faraway)を測ること。あるいは、最も身近なものの内にこそ、世界の深さを探し求めること。人間のスケールに適うものに即して、人間のスケールを遥かに超える世界の深さに接近すること。これが人間にとっての「世界の深さの測り方」にほかならない。
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アニメ『ど根性ガエル』の中に、幼少期の高嶺に強烈な印象を残した場面がある。主人公のひろしとピョン吉がある日喧嘩をし、仲直りをするために、二人が出会うきっかけとなった小石を拾いにゆく。だがその小石を拾い上げようとしても、まったく動かない。少し掘ってみると、石は、土の下に隠れていたより大きな石の突端であることがわかる。さらに掘り進めてみても石の全体像はいっこうに見えてこない。ついに二人が諦めかけたとき、カメラがいっきょにズームアウトする。するとその石は、地球の内部全体を埋め尽くす巨大な石の、小さな小さな突端でしかなかったことが明らかになる。自分が知覚しているものは、その背後にある巨大な存在の一部分でしかない。すべての人間は、全体像を見渡すことのできない巨大な存在によって翻弄されながら生きている。その存在は、すべての人間にとって、“とおくてよくみえない” ものなのだ。高嶺はその存在に、時に身を委ね、時に抵抗しながら、その存在の巨大さを、身をもって露呈させてゆく。高嶺の作品とは、巨大な存在に翻弄される高嶺の生々しい歴史の証言にほかならない。
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例えば、戦争や交通事故などで右手を失った人が、切断された右手が存在するかのように感じたり、そこに痛みを感じたりする現象をファントム・リム(幻肢/幻影肢)という。小谷いわく、人々は“自分が絶対に認めたくない自分”つまり“自己の内なる他者”を、自身の記憶から“切断”することで心身の安定を保っている。だがそのような切断されたはずの他者が不意に意識に蘇ってくることがある。そして人はそこに、鋭い“痛み”を感じる。このような“痛み”として知覚される自己の内なる他者=ファントム(亡霊)を、鑑賞者の心身にまざまざと呼び覚ますこと。これが小谷の彫刻制作の中心的なモチーフとなる。脳のコンピュータ化、身体の機械化、あるいは権力の不可視化、価値の相対化。自分自身の心身が、自身の統御からますます乖離してゆく現代にあって、時に痛みとして、時に異物として、時に快として現れてくるファントム・リムは、どのようにして治療されるべきなのか。それともそれは治癒されえぬものなのか。あるいはそれは、そもそも治癒されるべきものなのか——。 (続きを読む…)
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Formという西洋語は、古代から、目に見える「形」だけでなく、事物の「本質」という意味を持ち合わせていた。神が土の塊に「形」を与えることで人間を創造したように、あらゆる事物は、物質(materia質料)に形(forma形相)が与えられることで初めて成立する。であるならば、モノの「形」が変わることは、その「本質」が変わることを意味する。トランスフォーメーション、つまり形(Form)を超える(Trans-)こととは、自らの「本質」を超えることを意味するのだ。そこで乗り超えられるのは、動物と人間、男と女、人間と機械といった異種間の差異であり、野蛮と文明、自然と社会、現実と虚構、過去と未来といった社会的/意味論的な差異でもある。トランスフォーメーション(変身・変容)は、様々な時代の人々によって様々に解釈され、様々な不安や希望を伴いながら、様々なメタファを通じて表現/表象されてゆく。トランスフォーメーションという主題そのものが様々にトランスフォームしてゆく展覧会において、見る者はその変容に身を任せるか、それともそこに、変容しない何かを見出すか。 (続きを読む…)
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ニューマンは言う。「わたしが試みているのは、わたしの作品の前に立つ者が、そこに自分が存在しているということを知ることなのです。(…)全き存在である自分、他者から切り離され孤立した自分、他者とは違う自分を感じて欲しいのです」。ニューマンは、自分の絵画の前に立つ者が、そこに自分の存在を強く感じとる感覚を「場所の感覚(the sense of place)」と呼んだ。絵画が切り開く、人間に存在を与える「場所」。人は、絵画の前でこそ「存在」する。だがニューマンの絵画と対峙するものは、その圧倒的な威圧感に、その空間から閉め出されたような排他的な感覚すら覚えることがある。絵画は、鑑賞者の存在など意に介することなく超然とたたずんでいるように見える。《アブラハム》《原初の光》《契約》《光》《名》《ここ》——。極めて難解で、ユダヤ的な磁場によって強力に支配されたタイトルの数々。そして、一色に塗り込められた単調なカンヴァスと、その上に引かれた数本の垂直線(ジップ)。このような、局限にまで切り詰められたストイックなカンヴァスを前にして、人は、ニューマンの言う「場所の感覚」をどこまで引き受けることができるのか。
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